「ムードミュージック」は死語なのか?の巻
ムードミュージックという音楽ジャンルをご存じだろうか?
今や誰も見向きもしなくなった前世紀の遺物。そのネーミング自体もあまりのダサさからか、ある時期からイージーリスニングなどと呼ばれるようになった。デパートやホテルでBGMとして流れる、あの毒にも薬にもない音楽。
さて、私の手元にはいま『僕らのヒットパレード』という本がある。片岡義男と小西康陽の共著だ。この親子ほどの年の離れたふたり(片岡は1939年生、小西は1959年生)が音楽について語り合うのだが、それがジャズでもロックでもなくなんとそのムードミュージックについてなのである。ポピュラー音楽を語らせれば当代きってのふたりが、よりによってムードミュージックについて語るのだ。面白くないはずがない。
片岡義男という作家は、アメリカのポップカルチャーやその音楽に詳しい。小西康陽はピチカートファイブという音楽ユニットのリーダーでDJでもあり、オタク的にロックや歌謡曲はもちろんポップミュージック全般に極めて詳しい。その二人が好きな音楽について文を書き、対談したものをまとめた一冊だ。
ロックンロール以前はシナトラやドリス・デイなどの歌手もいたが、ビッグバンドやオーケストラによるボーカルのないインストルメンタルもポピュラーミュージックの主流のひとつをなしていた。そこにアメリカの才能が集結していたと片岡は言う。おお、やはりそうなんだ、そりゃそうだよな、と中学生時代にムードミュージックにかぶれた黒歴史を持つ私は大いに同意する。コール・ポーター、ビクター・ヤング、ホーギー・カーマイケル、アーヴィング・バーリンなどの名前は、ロックンロール以前のヒット曲を作った才能たちだ。
当時の我が家にもご多分に漏れずオーディオセットがあり、父のレコードのうちクラシックと邦楽を除くと、大半はロックンロール以前のムードミュージックや映画音楽だった。彼らは世代的にロックンロールに馴染みがなかったからだ。我々世代がラップになじまず、いまだにユーミン、サザンを聴いているのと同じか。
身近にある音楽といえば学校の唱歌とテレビから流れてくる歌謡曲だけだった子どもが、音の出るステレオという機械が気になってレコードをかけてみて、新たな音楽の世界にめざめるというのは、当時よくある話だったのだろう。
するとどうしても親の音楽の影響を受けてしまうのだが、これが年長の兄弟姉妹がいるとそちらの影響を受ける。わが世代だと、ビートルズはむろんピンクフロイドやレッドツェッペリンにイカれたマセガキは、だいたい兄か姉がいたように思う。兄姉がおらず直接親の影響を受けると、ひと世代上のムードミュージック、映画音楽、ラテン音楽などとなってしまうのだ。
高校の頃、同級生に「キミ、ビートルズが好きなの?オレはクリームが最高だと思う。やっぱクラプトンだわ」なんていうヤツがいた。小馬鹿にした態度は気に食わないのだが、知らないミュージシャンの名前を出されると、自分には修業が足りないという気になった。そのうち勝手に「クラプトンなど>ビートルズ>その他洋楽(含むムードミュージック)>歌謡曲」といったポピュラー音楽のヒエラルキーを勝手に内面化していたのである。
だがこの本には、そんな思い込みを軽妙に乗り越えていく力がある。いまさらながらありがたく啓蒙された。