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月刊フォーNET 連載コラム 「ネット古本屋のつぶやき」 5月号


5月 30th, 2024 | Permalink

 いまでも手帳を使っている人はどれくらいいるのだろうか? スマホでスケジュール管理をしているから手帳は不要だという人もいるだろう。わが家のカミさんなんぞは冷蔵庫に貼ったカレンダーでスケジュール管理をする強者だ。

 私は長いこと手帳を使ってきていたが、ここ数年スマホのカレンダーでスケジュール管理をするようになり、手帳に白いページが増えてきたので思い切って買うのをやめてみた。

 たしかにスケジュールの管理だけでいえば、スマホは便利だ。なにしろ手帳を持ち歩く必要がない。スケジュールを忘れないようにアラームを鳴らすこともできるし、過去の書き込みを検索するのも容易だ。

 ところが、である。過去の事歴を思い起こそうとすると、これが案外不便なのだ。手帳にはスケジュール管理の面とは別に、日記または記録という面がある。ピンポイントで一つの出来事を探し出すにはスマホは便利だが、過去の出来事の有機的な繋がりを見ようとすると掴みにくいと感じる。デジタル画面をスワイプしたりスクロールする行為には身体的な実感が伴わないから何年さかのぼったかわかりにくい。これは、デジタル機器へのリテラシーの低さの問題なのだろうか。じつはそれだけではないのではないか、という気がしているのだ。

 私は2010年から15年ほど「ほぼ日手帳」という糸井重里プロデュースの手帳を使ってきた。1日1ページの日記形式で、1冊で1年分。文庫本と同じ大きさだ。

 毎年巻末にその年の個人的な10大ニュースを書いておき、後から記憶を辿る際の手がかりとしている。

 ここ2年ほど、価格が高いことと糸井重里に違和感を覚えたことでこの手帳をやめていたのだが、また戻ってきてしまった。というのも紙質・書き味などの総合点で悔しいが他に代わるものは見つからないのだ。同一サイズのものがずらりと書棚に10数冊並ぶ快感も捨てがたい。

 さて、その巻末の10大ニュースを「脳を活性化する自分史年表」(藤田敬治)という本に転記するのだが、こうすると1冊で自分の半生が見渡せるようになる。この本はその年の重大事件や世相の横に個人の記録が書けるので、記憶を辿るのに重宝している。

 手帳の話に戻る。過去の出来事を調べるにあたって、一冊ごとに手帳を開くことで、身体的・心理的に区切りというか、記憶を辿る手助けになっている感覚がある。デジタルのカレンダーだとひたすらスクロールするだけなので、年数を遡った実感が伴なわず隔靴搔痒の感が拭えない。

 じつはアナログレコードの再評価が話題になっているのも、これと同じ構造があるのではないかと睨んでいる。ジャケットからレコード盤を取り出しターンテーブルにのせ針を落とす。この一連の操作が音楽を聴くための小さなイニシエーションになっている気がする。音楽も遡れば祭儀に発しているだろうから、傾聴にあたり儀礼を通過するのはありうべきことにも思えてくる。というと大げさだが、日常を離れて音楽を聴くモードに入るための区切りを付けるには、ちょっとした作業が有効なのだろう。

 過去の記憶を呼び起こし自分の歴史を組み立てることも、ある種日常からの離脱だから、デジタル画面を延々とスワイプするよりも手帳を一冊づつ開く方が「テンションが上がる」気がするのだが、どうだろう。

 

 

 

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