テレビをつけると映画をやっている。見るともなしに眺めていると、なぜだか目を離せなくなってしまい、最後まで見てしまうことがある。女優の美しさに目を奪われることももちろんあるが、そればかりではない。
たとえば「バクダッドカフェ」という映画。特段の美男美女は出ず、豪華絢爛な舞台装置があるわけではない。派手なアクションもないが、映像の密度が高いといおうか、映っているものの色・配置・演技・表情などが、テレビドラマとは段違いの密度を持っていて、一瞥しただけでその映像に引き込まれてしまう。
ストーリーを追うのもひとつの楽しみ方だが、映像そのものが快感であるような映像体験があるように、文章でも同じことがある。ふとめくったページに書かれた片言を読んだだけで、引き込まれてしまうような経験。
古本屋は仕事がら、ときとして本をぱらぱらめくって中を覗く。読むというほどではなく、ちょっとかじるぐらいだが、そうやって本に引き込まれることがある。
先月紹介した関川夏央の『本よみの虫干し』もそうだったった。そのせいで、柄にもなく川端康成を読んだのは前回語った通り。
この本は「日本の近代文学再読」と銘打ってさまざまな明治以降の小説を取り上げている。森鴎外の『阿部一族』もあるが、私は文語体が無性に読みたかったので「舞姫」を読んでみることにした。
「石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱灯の光の晴れがましきも徒なり」。
高校の現国でやったアレである。あのときは面白くもなんともなかったが今はすこしちがう。船の中等室ということは、一等船室ではなく二等ぐらいなのだろう。熾熱灯といのは何だかわからないが、明治の初期だから、ガスだか油だかを使う灯火なのだろう。今から見ればアンティークな意匠がほどこされているにちがいない、などと思いを巡らす。書き手の意向を汲むような、こんな読み方ができるようになったのが年の功だとしたら、年をとるのも悪くない。
以前は速読こそ命と、早く読むことに価値を見出していたが、今回はあえてゆっくりと読もうと、鉛筆片手に線を引きつつ読んだ。現国のテストのようだ。リズムを妨げぬよう線は引くだけにし、大意がつかめたところで線引き部分をスマホで調べる。
そうやって読むと雅文体と言われる理由がわかるだけでなく、その美しさを味わっている自分に驚く。へえ、オレにも鴎外の良さが分かるんだ。
今さらだがスマホは便利だ。たとえば「踟蹰」という単語が出てくる。まず読み方がわからない。そこで「足偏に知」と検索すると、「「足」へんに「知」と書く漢字は「踟」(ち)で、「ためらう」「足どり」などの意味を持ち、「踟蹰(ちちゅう)」のように使われ」といきなり結論が出てくる。
そのちちゅうを調べると「歩みを進めるのをためらい、その場に立ち止まること、または心の中で迷い、ためらうこと」だとわかる。この年になっても新しい言葉を知るのは嬉しいものだ。
とうわけで、柄にもなく文豪の本を立て続けに読んでみたのだが、まさに食わず嫌いであったことが判明。日本語の世界の広さを感じたり、その面白さや美しさに感銘を受けたりしている。



